兵衛向陽閣には「聚楽」という宴会場があります。
この「聚楽」は豊臣秀吉の聚楽第から来たもので
今回は聚楽第のお話をひとつ
※絵は『聚楽第図屏風』(三井記念美術館所蔵)部分
聚楽第は関白となった豊臣秀吉が政務を執り行い、
また邸宅として造られたらしいですね。
大建造物好きの秀吉らしく豪奢なものであったらしいです。
九州征伐を終えた秀吉が大坂城より移り、ここで政務をみたの
ですが天正16年4月14日には今上天皇の後陽成天皇の行幸を
迎えてこれを饗応したらしいです。天皇が臣下の邸宅に
訪れるという栄誉は身分の低い秀吉にとっては
恰好の箔付けになったことでしょう。秀吉絶頂の頃のエピソードです。
その後、「小牧・長久手の戦い」で敗れていた家康にも
得意の外交で懐柔し(人たらし)上京させ臣下の礼を
取る謁見もここで行いました。いわば天下統一の仕上げの場所ですね。
ここから秀吉の人生の下り坂が始まります。
天正19年に後継ぎのいない秀吉は関白職を甥(姉・日秀の子、当時23歳)
豊臣秀次に譲り、聚楽第も秀次の居城となりました。
しかしその後、秀吉に跡継ぎができ不安になり自棄になった秀次は
「殺生関白」と揶揄されるように辻切りをしたりして秀吉により文禄4年に
高野山に追放して切腹させられました。
同時に秀次の居城であった聚楽第も徹底的に破却されたようです。
聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたらしいですが、
その伏見城も翌年に起こった大地震で破壊され、
またその後、再建された城は関ヶ原の合戦の緒戦で炎上しました。
現存する西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、
妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築されたという伝承がある
建造物も少なくないですが、いずれも伝承の域を出てないようです。
営業企画課 西浦圭司
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