出張で広島に来ています。
広島で考えたことを徒然なるままに
広島で私がまず連想するものは
1、「毛利元就」
三本の矢(サン・フレッチェ)の逸話で有名な毛利元就は一代で
中国地方の覇者になり10カ国を治めたが自分の息子たちの才能を
見切り自分の真似をして勢力を広げるのは無理と判断し自国の保持を
命じた。その為か関ヶ原の戦いでは毛利輝元は大阪城から一歩も動かず
敗戦の憂き目を見て山陽、山陰10カ国から周防、長門2カ国へ移封、
減俸された。
歴史に「もし」はないが西軍総大将の毛利輝元が関ヶ原にいれば
状況は変わっていただろう。明治のお雇いドイツ軍人、メッケルが
関ヶ原の布陣を見て間違いなく西軍の勝ちだと言ったらしいが
毛利軍の吉川広家と安国寺恵瓊が仲間割れしている事までは
知らなかったのだろう。
西軍の大将を石田三成と思っている人も多いと思うが
三成はたかだか奉行であり総大将になる権限はなかった。
ちなみに五大老のうちの三大老(毛利、宇喜多、上杉)を味方に巻き込んだ
石田三成の手腕は負けたとはいえ「男子の本懐」だったと思う。
ただ徳川家康とは役者が違いすぎた。徳川はもう一つの大老職である
前田家から「まつ」をすでに江戸に人質としていてさらに関ヶ原後の
豊臣との戦いに備え本隊である徳川秀忠軍を温存して勝っているのだ。
上田城で真田昌幸が足止めをしその後軍神のように崇められ息子の
真田幸村まで崇められているが所詮徳川の想定内だったと思う。皮肉にも
関ヶ原で徳川のイヌのように戦ったのは豊臣恩顧の武将同士であった。
2、「福島正則」
徳川の番犬のように戦った代表の福島正則は実は母が秀吉の叔母という
親戚であった。家康のように先祖代々の家来のいない秀吉にとっては
数少ない信頼できる家来として目を掛けてもらってきたはずであった。
関ヶ原の褒美として毛利の後に広島城に入った福島はこの頃が絶頂期。
少しづつ家康が本性を出し始め、「天下普請」と称して江戸城や名古屋城を
大名に作らせ始め力を削ぎ始めた頃に幼馴染である加藤清正に
「なぜワシがこんなことをせんとならんのか」と愚痴をこぼすと
「余計な事はいうな。文句があるなら国に帰って戦の準備をしろ」と
たしなめられたらしい。加藤清正が単なる戦上手だけで熊本54万石を得た
のではないという逸話である。その後、豊臣家は滅び福島家も没落したが
正則はどんな気持ちで死んでいったのだろうか。
3、「浅野長晟」
浅野長政の次男で宗家二代目。福島正則が改易された後、紀州から広島に移封、幕末まで続く。
浅野長政はねねと義理の兄妹。いわばそれだけの才能です。
浅野家と言えば分家の赤穂浅野家が不祥事を起こした事で有名ですが
吉良側から見れば単なるテロ事件。老人の家に47人で打ち入るなんて・・・・
広島では女子高生も「じゃけん」と語尾につけます。
営業企画課 西浦
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